『意志あるところに道は開ける。』”親のせい”という呪縛から抜け出せず、うまく自己開示できないあなたへ。

 

私は長年、「自分の性格を変えたい」とか、「なんでこんな性格になったんだろう」など悩み苦しんできました。

 

自分で出した結論は、「親との愛着形成不足」です。

 

そもそも人格を作り出している要因は、

「その人が元々持っている性質」+「環境によって獲得される性質」によって

形成されていると言われています。

 

このどちらが人格形成において影響力があるかといいうと

「環境によって獲得される性質」の方が大きいとされています。

 

「愛着形成」が及ぼす影響

環境要因の代表であるのが「愛着形成」と言われるもの。

聞き慣れない方もいると思うので、定義を紹介しますね。

 

愛着=ある特定の対象に対して強い情愛的結びつきをもとうとする人間の特性          

(参考:小児看護学概論/南江堂)

ここで言う、「ある特定の対象」とは

母親をはじめとする家族や保護者を指すでしょう。

あるいは、自分の周りの大人のことを指すのでしょう。

例えば赤ちゃんが、泣くとか笑うなども愛着行動(=対象と結びつきを持とうとするために行動すること)によるものです。

 

愛着形成については、様々な研究がなされていますが、

特に母親との結びつきが重要視されます。

愛着形成が安定していればこどもの気持ちも安定しますし、

愛着形成が不安定であれば、こどもの気持ちも不安定になります。

安定した愛着を形成することが、こどもの人格形成の基盤になると言えます。

私たちも、少なからず母親をはじめとした自分の家族から

性格形成の要因を受け取っているのではないでしょうか。

 

ci.nii.ac.jp

私の性格が形成されたのは、全部「親のせい」?

人格形成には愛着形成が深く関与している。

ではその影響が全てで

このまま、不変に苦しんでいくのかというと

必ずしもそうではないと思います、というのが最近の気づき。

 

ここ数カ月間、私はコーチングを受けています。

コーチングとは人の目標達成を支援するツールであり、

自分がこうなりたい!と願うものの成功を後押ししてくれる考え方です。

その中で、自分の行動を妨げている考え方を取り除くということをしているのですが

過去のトラウマ的体験に縛られていることが大半でした。

 

行動を妨げている原因の一つは、やはり親に縛られていた体験。

体を縛るという意味ではなく

心を縛るという意味です。

 

過度に心配されたり

寂しさを訴えられたり

 

育てられた環境の影響で

親にそのつもりがないとしても

私には「親に従わなければならない」という思いが強く根付くようになったと感じていました。

(※自分が感じていただけ、というところがポイント)

 

しかし、コーチングで自分のトラウマ的体験の記憶をたどっていくと

親に心を縛られていた体験が根底にあるというよりも

別の異なる体験が影響していたということが多くありました。

 

それは幼き頃の記憶で、「友達に約束を破られて悲しかった」とか「遊びに入れなくて寂しい思いをした」とか。

 

え?この記憶が私を縛っていたの??

と思うような記憶が原因であることが判明し、

驚きを隠せません。

 

このような根底にある経験を

その当時一番話を聞いてほしかった相手が

親であった、という話でした。

 

 ☟参考記事

kodomo-manabi-labo.net

 

環境要因的に

愛着形成は不十分であったかもしれません。

 

わかってほしいのにわかってもらっていない、とか

どうせ私の気持ちなんてわからないでしょ。とか

考えたことは、正直たくさんあります。

 

それがどんどん深い思考となっていき、

その思考回路がねじれていき、

今に至るまで苦しんできたということです。

 

私は真ん中っ子なので、

兄弟構成的な要因もあると思います。

 

けれど、少なくとも自分の行動阻害原因の根本は

親のせいではなかった。

 

よく考えると

むしろ親は自分の味方だった。

 

過保護だし、うるさいなぁと思うこともしばしばあるけど

いつも私を客観的に見て、支えてくれていました。

 

私が大学受験後に

突然浪人する!と言い出したときも

度肝抜かれながらも

背中を押してくれました。

 

そこに気づけたのは、27歳になってからです。つい最近。

今までずっと、どこか満たされない気持ちがありました。

 

父親が、母親が、という以前に

私は一人ひとりの人間に向き合っていなかっただけではないか

と思えてきたのです。

私は「人に向き合う」ということを苦手にしていただけなのではないか。

 

目の前の人に向き合って生きるということ

「目の前の人を大切にしよう」

 

こういう考え方をしばしば見てきました。

わかっているつもりだけど

その「大切にしよう」とは具体的に何だ?というもやもやが本音でした。

 

私は目の前の人を大切にしてると思っていました。

両親の誕生日も、父の日も母の日も祝ってるし、

友達や職場の同僚に、日ごろから感謝だって伝えてる。

 

でも、なんとなく繋がりの薄さを感じていました。

気持ちがなんとなく遠い。

 

それは私が無意識に、「深入りしないように」と薄ーいバリアを張っていたからでしょう。

 

今、「目の前の人に向き合って生きる」ということに結論を出すのであれば

それは、自分の心の声に向き合って生きるということではないでしょうか

 

自分の心にウソをついていれば

その心に沿って、相手は反応する。

それが私の本心であると、相手は思うからです。

 

けれどそれはウソの思考で繋がった関係

相手を大切にした生き方ではないように思います。

 

私は自己開示することがとても苦手でしたが

ブログも含め、正直なアウトプットを重ねることで

思考の歪みが思い描く方向へ

正されていることを感じています。

 

 

「そうじゃない、本当はこうしてほしい」と思うのであれば

その気持ちを相手に伝わるように伝えてみる。

あるいは、そのように意識して訓練してみる。

 

(もちろん、自分の心に向き合う=自分勝手にふるまう

ということは違うことはお分かりだと思いますが…。)

 

 

感謝や気持ちを形にするという以前に、

私はどうしたいのか、ということを追求してみる。

自分の意思で道を切り開く、ということをやってみる。

 

それが人と向き合っていくことであると思います。

 

まずは、自分の感情に優しく触れてみてください。

 **↓関連記事(^^)**

死性観を語ることで見えてきた自分の生き方。死に様は生き様である – ⁂WaKuWaKa⁂

 

侑子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ABOUTこの記事をかいた人

明日も会いたい人になる。 自分の心のもやもやを解決したい⏩小児看護の道へ。成長の源は、人と旅と看護の出会いから 小児がん3年 / 小児訪問看護1年目 小児医療人集まれ~!の会 主宰(不定期開催)。1992年生まれ。山が好きです。